ログイン月曜日の放課後、アオイは学校を早退した。体調不良と告げて、保健室から出た。嘘をついたことに罪悪感を感じたが、それ以上に、あの日記の続きを読みたいという欲求が勝っていた。
丘を登る石段を、息を切らしながら駆け上がる。図書館の扉を開けると、例の司書の老人がカウンターにいた。
「あら、また来てくれたの?」
「はい……本を、探していて」
「どうぞ、ゆっくり」
アオイは書庫へ向かった。昨日見つけた場所。革装丁の日記が置いてあった棚。
しかし――
そこには、何もなかった。
アオイは慌てて周りを探した。他の棚も、床も、どこにも日記はなかった。消えてしまったのか。それとも、誰かが持って行ったのか。
「何をお探しですか?」
背後から声がした。振り返ると、司書の老人が立っていた。いつの間に来たのだろう。足音も聞こえなかった。
「あの……昨日、ここにあった日記なんですけど……」
「日記?」
老人は首を傾げた。
「革装丁の、古い日記です。1975年の観測日記って書いてありました」
「ああ……」
老人は何かを思い出したような表情をした。
「それなら、奥の閲覧室にあるかもしれません。特別な本は、そちらで管理しているので」
「閲覧室?」
「ええ。こちらへどうぞ」
老人は書庫の奥へと歩いていった。アオイは後に続く。
書庫の最も奥には、小さな扉があった。老人はポケットから鍵を取り出し、それを開けた。
「ここが閲覧室です。どうぞ」
扉の向こうは、小さな部屋だった。窓が一つあり、机と椅子が置かれている。そして、棚には数冊の本が並んでいた。
その中に、あの革装丁の日記があった。
「これです!」
アオイは日記を手に取った。老人は優しく微笑んだ。
「その本は、特別な本なんです。読む人を選ぶ本、と言ってもいいかもしれません」
「読む人を選ぶ……?」
「ええ。では、ごゆっくり」
老人は部屋を出て、扉を閉めた。アオイは一人、閲覧室に残された。
机に座り、日記を開く。前回読んだページを探し、その続きから読み始めた。
『5月10日 晴れ 私は、この街に何か秘密があると確信した。そこで、調べることにした。夜、五時を過ぎてから外に出てみることにする。』
アオイは息を呑んだ。五時のルールを破ったのか。
『5月11日 曇り 昨夜、五時を過ぎてから外に出た。街は静まり返っていた。でも、奇妙なことに気づいた。家々の窓から光が漏れているが、人の気配がない。まるで、誰もいないかのようだった。 そして、時計塔の近くで、白衣を着た人たちを見た。彼らは何かの装置を持っていて、街を調べているようだった。私が近づくと、彼らは慌てて去っていった。』
白衣の人々。装置。それは何を意味しているのか。
アオイはページをめくり続けた。
『5月15日 雨 図書館の司書に尋ねてみた。この街の歴史について。すると、興味深いことを教えてくれた。 この街は、百年前に「実験都市」として作られたという。何の実験かは分からないが、特殊な目的のために設計された街だと。 でも、今はそんな実験は行われていないと言っていた。本当だろうか。』
実験都市。アオイの背筋に冷たいものが走った。
『5月20日 晴れ 私は気づいてしまった。この街には、奇妙な規則性がある。 毎週火曜日、パン屋が出すメニューは前の週と全く同じだ。一品も違わない。店主に尋ねても、「そういうものだから」としか答えない。 それから、街の人々は、決まった時間に決まった場所にいる。まるで、プログラムされているかのように。 私は恐ろしくなった。もしかして、この街は――』
そこでページが破れていた。次のページはなかった。
アオイは日記を裏返し、確認した。確かに、ページが引きちぎられている。誰が、なぜ。
最後に残っていたページには、走り書きでこう記されていた。
『もし、この日記を読んでいる未来の私へ。 気づいたと思う。この街は普通じゃない。でも、真実を知るのは危険だ。 私はこれから、図書館の地下に行く。そこに、すべての答えがあるはずだから。 もし私が戻ってこなかったら―― 片目が青い猫を数えて。火曜日のパンの数を覚えて。時計が逆回転したら、走って。 それが、この街から抜け出す鍵だ。』
アオイは日記を握りしめた。図書館の地下。そんな場所があるのだろうか。
閲覧室を出て、老人に尋ねた。
「あの、この図書館に地下はありますか?」
老人は、少しの間、黙っていた。そして、ゆっくりと答えた。
「地下……ありますよ。でも、今は使っていません」
「入ることはできますか?」
「なぜ、そんなことを?」
アオイは迷ったが、正直に答えることにした。
「日記に書いてありました。真実は地下にあるって」
老人の表情が変わった。驚きではなく、何か別の感情。悲しみにも似た、複雑な表情。
「……あなたは、気づいてしまったのですね」
「何に、ですか?」
「この街の秘密に」
老人は深くため息をついた。
「地下への入り口は、書庫の奥にあります。でも、行くなら覚悟が必要です。そこで知る真実は、あなたの世界を変えてしまうかもしれません」
「それでも、知りたいんです」
アオイの声は、震えていなかった。自分でも驚くほど、冷静だった。
老人は立ち上がり、書庫へと向かった。アオイも後に続く。
書庫の最も奥、壁に一枚の絵画が掛けられていた。老人はそれをずらした。すると、その裏に小さな扉が現れた。
「この先が、地下です」
老人は鍵を差し込み、扉を開けた。
中は暗く、階段が下へと続いていた。
「灯りを持っていきなさい」
老人は懐中電灯を手渡した。アオイはそれを受け取り、階段を降り始めた。
「待ってください」
老人の声が、背後から聞こえた。
「あなたが、次の柊アオイなのですね」
「次の……?」
「真実を知ろうとする者は、いつも同じ名前を持っている。それが、この街のルールです」
アオイは振り返ったが、老人の姿は影に隠れて見えなかった。
階段を降り続ける。石造りの壁は湿っていて、空気はひんやりとしていた。どのくらい降りただろう。時間の感覚が曖昧になっていく。
やがて、階段は終わり、広い空間に出た。
懐中電灯で照らすと、そこは巨大な部屋だった。壁一面に、古い機械が並んでいる。計器、モニター、配線。すべてが埃をかぶり、動いていないように見えた。
部屋の中央には、大きな机があった。その上に、一冊のファイルが置かれている。
アオイは机に近づき、ファイルを開いた。
最初のページには、こう書かれていた。
『実験記録 プロジェクト・オブザーバー 開始日:1975年4月1日 目的:人間の記憶と認識の可塑性に関する研究』
アオイの手が震えた。ページをめくる。
『被験者:柊アオイ(14歳) 実験内容:閉鎖環境における反復的生活パターンの提示。被験者の認識変化を観測する。』
次のページ。
『実験日数:180日 結果:被験者は異常に気づき始めた。実験の継続が困難と判断。記憶のリセットを実施。』
記憶のリセット。
アオイは、ページをめくり続けた。そして、最後のページに辿り着いた。
そこには、驚くべきことが書かれていた。
『注記:本実験は継続的に実施される。被験者の記憶をリセットし、同一の環境を繰り返し提示することで、人間の適応能力の限界を測定する。 被験者が真実に到達した場合、記録を残し、次のサイクルへ移行する。 これまでの実施回数:47回 現在の被験者:柊アオイ(48代目)』
アオイは、その場に崩れ落ちた。
四十八代目。自分は、四十八番目の柊アオイなのか。
そして、この実験は――まだ続いているのか。
アオイは時計塔へ向かった。今度は、躊躇しなかった。 らせん階段を駆け上がり、機械室に入った。巨大な歯車が回り続けている。 アオイは、あの装置に近づいた。モニターには、カウントダウンが表示されていた。『次回リセットまで:39時間12分』 その下には、相変わらず二つのボタンがあった。赤い「リセット」と、青い「停止」。 でも、今回アオイが注目したのは、その隣にある小さなパネルだった。 パネルには、キーボードのようなものがついている。そして、その上に「管理者コマンド」と書かれていた。 アオイは、ノートを取り出した。最後のページに、暗号のような文字列が書かれていた。『もし、ここまで辿り着いたなら、このコードを入力しなさい:OBSERVER_PARADOX_7891』 アオイは、その文字列を入力した。 するとモニターが点滅し、新しい画面が現れた。『管理者モード 認証成功 現在のシステム状態:稼働中 実験サイクル:第48回 被験者ID:A-001(柊アオイ) 観測者ID:なし』 観測者IDが、なしになっている。 つまり、老人が言ったことは嘘だったのか。自分は観測者ではなく、やはり被験者なのか。 アオイは、メニューを操作した。様々な項目が並んでいる。『システムログ』『被験者データ』『環境設定』『リセット履歴』―― その中で、『真実の記録』という項目が目を引いた。 アオイは、それを選択した。 画面が
水曜日の朝、アオイは学校を休むことにした。母に体調不良を告げ、部屋に残った。 もう、日常を演じている余裕はなかった。 アオイは、ノートを読み返した。歴代の柊アオイたちが残した記録。彼女たちの発見、推測、そして失敗。 特に、第三十二代目の記録が興味深かった。『私は気づいた。この実験の本当の目的は、「観測」そのものにある。 被験者である私たちが、どのように世界を認識し、どのように異常に気づき、どのように反応するか。そのプロセスこそが、研究の対象なのだ。 つまり、私たちは観測される存在であると同時に、観測する存在でもある。』 観測者であり、被観測者である。そのパラドックス。 アオイは、窓の外を見た。いつもと変わらない街の風景。でも、それは本当に「いつもと同じ」なのだろうか。 ふと、思いついた。 もし、自分が観測者の立場だとしたら―― アオイは図書館へ向かった。老人に会う必要があった。 図書館に着くと、老人はカウンターにいた。アオイの姿を見て、微笑んだ。「また来ましたね」「聞きたいことがあります」「どうぞ」 アオイは、真っ直ぐに尋ねた。「私は、本当に被験者なんですか?」 老人の表情が、わずかに変化した。「どういう意味ですか?」「地下の記録には、私が被験者だと書いてありました。でも、もしかして……私は観測者の側なんじゃないですか?」
火曜日の朝、アオイは早起きした。学校へ行く前に、パン屋に立ち寄るためだ。 パン屋は、街の中心部にあった。小さな店で、いつも焼きたてのパンの香りが漂っている。店主は優しそうな中年の女性で、いつも笑顔で客を迎えていた。「おはよう、アオイちゃん。今日は早いのね」「おはようございます。朝ごはん用のパンを買いに来ました」 アオイは店内を見回した。棚には、様々な種類のパンが並んでいる。クロワッサン、バゲット、メロンパン、あんぱん…… そして、アオイは気づいた。先週の火曜日、ユウカと一緒に通りかかったとき、同じパンが同じ位置に並んでいた。 アオイは数を数え始めた。クロワッサンが十二個、バゲットが八本、メロンパンが十五個…… すべて、記憶の中の数と一致した。「どれにする?」 店主が尋ねた。「あの……毎週火曜日、同じパンを同じ数だけ焼いているんですか?」 店主の表情が、一瞬だけ固まった。でもすぐに笑顔に戻った。「そうよ。火曜日は、決まったメニューなの。お客さんが覚えやすいように」「でも、売れ残ったらどうするんですか?」「不思議なことに、いつもちょうど売り切れるのよ」 その答えに、アオイは確信した。これもまた、プログラムされたパターンなのだ。「クロワッサンを二つください」「はい、どうぞ」 パンを受け取り、店を出た。学校
アオイは、どのくらいその場にいただろうか。時間の感覚が失われていた。頭の中は、混乱と恐怖でいっぱいだった。 自分は、実験の被験者だった。この街も、住人たちも、すべてが実験の一部だった。そして、記憶は何度もリセットされている。 でも、待って。アオイは立ち上がり、もう一度ファイルを読んだ。 これまでの実施回数、四十七回。現在は四十八代目。 ということは、五十年前の日記を書いた柊アオイは、もっと前の世代なのか。それとも―― アオイは、ファイルをさらに調べた。古い記録が挟まれている。『第1回 1975年4月1日~9月28日 結果:被験者は真実に到達。記憶リセット実施。』『第2回 1975年10月1日~1976年3月15日 結果:被験者は真実に到達。記憶リセット実施。』 記録は続いている。そして、興味深いことに気づいた。 すべての実験は、同じ「柊アオイ」という被験者に対して行われている。しかし、実施日は異なる。あるものは数ヶ月、あるものは数週間で終わっている。 つまり――同じ人物の記憶を、何度もリセットして、繰り返し実験しているのだ。 アオイは震えた。では、自分は誰なのか。本当に十四歳なのか。それとも、もっと年を取っているのか。 いや、違う。時間の流れ自体が、この実験では操作されているのかもしれない。 アオイは階段を駆け上がった。図書館の書庫に戻ると、老人はまだそこにいた。「真実を、知ったのですね」 老人の声は、穏やかだった。「あなたは……誰なんです
月曜日の放課後、アオイは学校を早退した。体調不良と告げて、保健室から出た。嘘をついたことに罪悪感を感じたが、それ以上に、あの日記の続きを読みたいという欲求が勝っていた。 丘を登る石段を、息を切らしながら駆け上がる。図書館の扉を開けると、例の司書の老人がカウンターにいた。「あら、また来てくれたの?」「はい……本を、探していて」「どうぞ、ゆっくり」 アオイは書庫へ向かった。昨日見つけた場所。革装丁の日記が置いてあった棚。 しかし―― そこには、何もなかった。 アオイは慌てて周りを探した。他の棚も、床も、どこにも日記はなかった。消えてしまったのか。それとも、誰かが持って行ったのか。「何をお探しですか?」 背後から声がした。振り返ると、司書の老人が立っていた。いつの間に来たのだろう。足音も聞こえなかった。「あの……昨日、ここにあった日記なんですけど……」「日記?」 老人は首を傾げた。「革装丁の、古い日記です。1975年の観測日記って書いてありました」「ああ……」 老人は何かを思い出したような表情をした。「それなら、奥の閲覧室にあるかもしれません。特別な本は、そちらで管理しているので」「閲覧室?」「ええ。こちらへどうぞ」 老人は書庫の奥へと歩いていった。アオイは後に続く。 書庫の最も奥には、小さな扉があった。老人はポケットから鍵を取り出し、それを開けた。「ここが閲覧室です。どうぞ」 扉の向こうは、小さな部屋だった。窓が一つあり、机と椅子が置かれている。そして、棚には数冊の本が並んでいた。 その中に、あの革装丁の日記があった。「これです!」 アオイは日記を手に取った。老人は優しく微笑んだ。「その本は、特別な本なんです。読む人を選ぶ本、と言ってもいいかもしれません」「読む人を選ぶ……?」「ええ。では、ごゆっくり」 老人は部屋を出て、扉を閉めた。アオイは一人、閲覧室に残された。 机に座り、日記を開く。前回読んだページを探し、その続きから読み始めた。『5月10日 晴れ 私は、この街に何か秘密があると確信した。そこで、調べることにした。夜、五時を過ぎてから外に出てみることにする。』 アオイは息を呑んだ。五時のルールを破ったのか。『5月11日 曇り 昨夜、五時を過ぎてから外に出た。街は静まり返っていた。でも、奇妙なこ
日曜日の朝、アオイはユウカとの約束通り、図書館へ向かった。丘を登る石段は少し急で、息が切れる。でも、その先に広がる景色は美しかった。 図書館は、街で一番高い場所にあった。石造りの建物は重厚で、どこか別の時代から切り取られてきたような雰囲気を醸し出していた。「アオイ! こっちこっち!」 ユウカが手を振っていた。既に図書館の前で待っていたらしい。「ごめん、遅くなった」「ううん、私も今来たところ。さあ、入ろう」 重い木の扉を開けると、古い紙の匂いが鼻をついた。図書館の中は薄暗く、本棚が迷路のように並んでいた。窓から差し込む光が、埃の粒子を照らし出している。 カウンターには、老人の司書が座っていた。白髪で、丸い眼鏡をかけている。アオイたちを見ると、優しく微笑んだ。「いらっしゃい。ゆっくり見ていってね」「ありがとうございます」 ユウカは慣れた様子で奥へ進んでいった。アオイも後に続く。本棚の間を歩きながら、背表紙を眺めた。古い本が多く、中には百年以上前に出版されたものもあるようだった。「ねえ、アオイ。この本、面白そうじゃない?」 ユウカが一冊の本を手に取った。『星の観測者』というタイトルだった。「観測者?」「うん。星を観測する人の話らしいよ。ロマンチックじゃない?」 アオイはその本を手に取り、ページをめくった。古い活字が並んでいる。最初の数行を読んだとき、奇妙な感覚に襲われた。 この本を、前にも読んだ気がする。いや、読んだことはないはずだ。でも、この文章を、確かに知っている。「どうしたの、アオイ?」「ううん、何でもない」 アオイは本を棚に戻した。ユウカは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。 二人は図書館の中を歩き回った。奥の方には、誰も来ないような古い書庫があった。埃をかぶった本が、忘れ去られたように並んでいる。「こんな場所もあるんだね」 アオイがつぶやいた。ユウカは周りを見回しながら言った。「私、ここに来るの初めてかも。いつもは手前の棚しか見ないから」 アオイは、ふと一冊の本に目を留めた。革装丁の古い本で、背表紙には何も書かれていない。引き抜いてみると、意外と軽かった。 表紙を開く。タイトルページには、こう書かれていた。『観測日記 1975年』 1975年。五十年前だ。アオイはページをめくった。 それは、